顧問に発見されたことについて。
中3の諸君は見つかる、見つからないの区別ができていなかったのではないか。
実際、発見されるかされないかということは行為の有無からは独立したものであり、どうでもよいことだと思われるかもしれないが、少なくとも私はそういうものではないと考えている。
この問題は物事の善悪といった観念にかんするもんのであり、意味附与性、意味内在性といった思想にも絡んでくるので少し述べたいと思う。
やや突っ込んだ話。
そもそも行為自体に意味が内在しているか、それとも行為自体には意味がなく、人間が意味を附与しているかという問題である。
少し考えれば意味附与であることは明白なのだが(仮に現象に意味が内在していたとしても現在の人間がそれを感知することは不可能である)意味内在というものが信じられている時代もあった。
プラトンのイデア論などはそういった思想である。
しかし、今でも人間は無意識に意味内在性に支配されているといってもよい。
たとえば、首を振るといった仕草。
これをみるとわれわれは否定の意を汲むことになるのだが、別に行為自体に否定の意があるわけではない。
その証拠に外国(たぶんブルガリアかな?)では首を振るという仕草には肯定の意味をもたせる。
このように現在では意味附与といった思想が主流である。
こういった思想のもとで・・が顧問に発見されるということは悪という意味が附与されているといえる。
続く。
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